例えば、家で感じるときの雨と、京創舎にいて感じる雨はまったく違う。
この違いは一体何なのか?ふと、そんなことを考えてみたりする。
一番大きいと思うのは、多分、建物の材質の違いなのだろうな~、と思う。
鉄筋コンクリートの建物と、木材を使った建物というのは、まったくの別物である。
建物単体では、普段の生活をしている中では、それほど違いを感じることはない。
そこに雨という要素が加わることで、ハッと気付かされたりするのだ。
京創舎単体が古民家だとしても、あまり感じることはないかもしれない。
ここは周りがみんな古民家で、窓に映る景色も見渡す限り、すべて古民家。
そういった環境だからこそ、雨の表情というものが、よりくっきり現れてくる。
雨というものが格別に、趣のある深いものに感じたりするように思うのだ。
京創舎にいるときの方が、雨によってハッキリとした表情を感じたりするのだ。
木のぬくもりというのは、決して言葉尻だけのものではなく、間違いなくあると思う。
わたしは、長らくその感覚に気付いていなかった、そんな気がしている。
考えてみればいままでの人生で、これほど木材に囲まれて生活をしたことがなかった。
京創舎に来るまでは、ここまでハッキリと木材を意識したことがなかったのだ。
木は生き物であり、呼吸をしていて、わたしたちに寄り添って生きている…。
普段は、特に存在感を示すこともなく、その場に鎮座しているだけかもしれない。
でも、何かをきっかけにして、わたしたちにいろいろと感じさせられるものがある。
それはわたしたちにとって、必ずしも良い結果をもたらすことはないのかもしれない。
火事によって延焼してしまったり、地震によって倒壊してしまったり…。
でも雨によって表情が変わって、わたしの心をぐっと引き寄せるものが生まれたりする。
いったんその感情に引き込まれていくと、愛おしさがどんどん増していくことになる。
ジッタリンジンの「雨上がり」を聴くときと、似ているところもある気がしている。
ジッタリンジンの「雨上がり」は、音楽的なセンスがあれば誰でもできる、といった類いの曲ではない。
些細なことから物事を感じ取るセンス、それを膨らませていく力…。
これが本当にハンパなくて、とんでもない名曲だと感じたりするのだ…。
雨の日の京創舎で聴く、ジッタリンジンの「雨上がり」。
それぞれまったく趣が違うのだけど、わたしはそれらを重ね合わせて聴いている。
京創舎で過ごした雨のひとときというのは、これからも胸に刻まれていく気がしている。
わたしはいままでずっと、ブログでビジネス的な文章ばかりを書いてきた。
ときおりこういった、随筆というかエッセイのようなものを書きたくなってくる。
書いていて、自分の表現力の乏しさに、本当にウンザリしてしまうことは多い。
木の表情というものを、もっと詳しく書ければと思ったりするのだけど…。